2010年06月20日

アメリカ人と放物線。

サッカーワールドカップが日々盛り上がる中、アメリカではNBAのファイナルが行われた。
今年はレイカーズが7戦目を逆転で勝利し、チャンピオンになったわけだが、その速報映像に映し出された3ポイントシュートが非常に美しかったので印象に残っている。
選手の(NBAをチェックしなくなって長いので抽象的な表現だがご海容を乞いたい)手を離れたボールが、美しい放物線を描いて、リングに吸い込まれていく。
放物線の頂点で一瞬、コート上の運動が停止し、観客も息を飲む間が発生し、それが重力に導かれ、音を立ててリングを通過した際に歓声が爆発する。
そんな光景を見て、そういえば最近似たようなことを感じたなと記憶を呼び起こしてみると、それはベースボールの試合、それもホームランのシーンだったことに思い至った。

アメリカの4大メジャースポーツといえば、ベースボール、バスケットボール、アメリカンフットボール、アイスホッケーだが、前3者は、いずれもボールが放物線を描くイメージによって彩られている。
ヨーロッパでは、これらのスポーツが必ずしもメジャースポーツではないという事実に照らし合わせると、アメリカ人がこれほど「放物線」型球技を愛していることは、一種の民族誌的奇習といってよいだろう。

では、なぜ彼らは、これほど放物線のイメージを愛するのか。
ここで、「ミサイルのメタファーだ!やはりヤンキーどもは戦争が好きなんだ!」ということはたやすい。しかし、次の歴史的事実がその解釈を妨げる。
すなわち、MLBの発足が1903年、NFLが1920年、NBAが1946年であるのに対して、アメリカで最初のミサイルが開発されたのが1955年であるという事実がこれである。
ミサイルよりも、これらのスポーツが組織化された時期の方が早いのである。
仮にアメリカ人が、放物線のイメージにミサイルを重ね合わせ、それがゆえにミサイルをも愛すると仮定しても、それは「放物線を愛するという民族誌的奇習の一つの現われ」ととらえるしかない。

改めて問う。アメリカ人はなぜ、これほど放物線に魅せられるのか。
まず、放物線の形状からアプローチすることができる。
放物線とは、「地表(つまり重力下)で投射した物体の運動(放物運動)が描く軌跡」を意味する。
その形状はなだらかな傾斜と頂点を持ち、左右が概ね対象になる点に特徴がある。
フロイトならば、これをファルスととらえることになるだろう。
なるほど、アメリカにおいてサッカーがいまなおメジャースポーツとしての地位を獲得出来ないのは、サッカーのゴールネットが子宮、ボールが精子を意味する「着床のゲーム」であり、男性性の象徴たるファルスのイメージがそこに介在しないからだととらえることは一つの説明ではある。
(それは同時に、アメリカ女子サッカーの強さを裏付けるかもしれない)
しかし、放物線がファルスだ、とも断定し切れない。放物線の有する丸みは同時に女性性を表現する(例えば乳房)とも解釈可能だからだ。
(また、放物線=ファルスととらえると、「やっぱりアメリカ人どもはマッチョだぜ!」というステレオタイプに回収されてしまう嫌いがある)

では、アメリカ人の放物線愛はどこからやってきたのか。
もう一度放物線の定義を確認すると、そこには、「地表(つまり重力下)から【重力に抗って】射出される」という特徴が看取される。
それは同時に、「いずれは【重力に従って】出発点とは異なる地点に着陸する」ことを含意する。
この特徴とアメリカを対比するとき、想起されるのは、ピルグリム・ファーザーズの物語である。
弾圧から逃れた巡礼の始祖たちは、おそらくは神の法則によって、アメリカという理想郷に到達した(少なくとも、そう考えられている)。
これを放物線と照合すると、弾圧という重力から解き放たれ(地表からの射出)、それが神の力によって約束の場所にたどり着く(重力に従った出発点とは異なる地点への着陸)という形で符合する。

ホームランにアメリカ人が熱狂するのも同じ理路だと考えられる。
すなわち、「フィールド=戦場」から、「スタンド=安全地帯」に「ボール=始祖」が到着するから、「得点」に結びつく。
バスケットボールの得点も、ネットが「safety net」のイメージと結びつくことで、同種のロジックに結びつけられようし、アメリカンフットボールにおいて、混戦地帯を抜けたパスに熱狂するのも、同じところであろう。

これがこのエントリの結論である。
すなわち、アメリカ人は、放物線に、アメリカ建国の物語を重ねあわせている。
しかし、この結論は、当たり前といえば当たり前である。
内田樹がすでに指摘しているように、アメリカ人はその建国の物語に立ち返ることでアイデンティティを確認する。
その繰り返し作業の中で、アイデンティティ強化に資するものが選択的に生き残るであろうし、それがスポーツの領域では、放物線型球技に結びついていた、ということであろう。

この解釈では、メジャースポーツの4つ目であるアイスホッケーの説明が困難である。
直線型スポーツの代表格である氷上の格闘技が放物線型である3つと同じロジックに回収できるものなのか、それとも独自の背景があるのかは、誰かの分析をまたざるを得ない。

というわけで、久しぶりに超長文を書き散らしたわけである。
なお、当然私はこの分野については素人であるので、事実関係の誤りなどあっても、優しくスルーしていただけると助かる次第である。
posted by 広域 at 00:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 書きちらすこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、だから日本は物言いとかであとからごにょごにょして
誰かに結果を決めてもらう競技が自称国技なんですね・・・

さすがです!ツイッターでのやりとりも楽しいですが、
やはり広域さんにはこういう「コラム」を書き続けていって欲しい!
それも定期的に!とこう書くと持ち上げ過ぎのような
気分になりますが決してそんなことはなく、
時節と知識を絡めてうまく得意分野で落とすテクは
読んでいて心地良くかつ参考になるんです。


アイスホッケーはカナダが発祥でそれが意外に面白かったから
割とメジャーになったという側面があるので純粋に米国産の
他の3つとはちょっと違うのかもしれませんね。
(フランスっぽさが混じっている・・・?)
それにシーズンスポーツであることや地域の不可逆性
(冬の北部で他の競技はやろうと思えば出来るが、
夏の南部でアイスホッケーは絶対出来ない)
などもその辺を促進しているのかもしれません。

あまりスポーツは詳しくないんですが、ホッケー以外のゲームは
「試合が細切れになりやすい→解説する間があって初心者も入りやすい」
という特徴もあるのかな、とも思いました。
そのことによってコミュニティを作り上げ教義を随時確認する
作業がさりげなく仕組まれている点でも建国への振り返りなのかも。



さて、超重箱の隅つつきとなりますが
ミリオタ視点からの敢えての指摘を。

米国初のミサイルの例示でAGMを使っていますが、
これは「巡航ミサイル」であり指向誘導性に特徴があります。
なのでどちらかというと
「自律制御の獲得による放物線からの離脱」に力点が
置かれてしまいがちなので今回の論旨にはちと不向きかと。

となるともう一つのカテゴリである「弾道ミサイル」ですが、
こちらは字の如く放物線を、しかももの凄くでかいそれを描くモノです。
コレの実戦配備は大体冷戦ですし、始祖にしてもナチスドイツのV2
(ロンドン爆撃で有名なやつ)なのでそこまで古くありませんから
こちらの方が文意の沿いやすいかと。

で、その弾道ミサイルはマクロ的に見るとまさに
砲弾・ボールと同じように純粋な放物線を描きます。
するとその元祖は砲であり銃であるわけです。
であるならば南北戦争時のウィンチェスターや
西部開拓時代のコルトを例に出すまでもなく、
「放物線と建国が直接的にリンクし思いを馳せるのだ」
というなんともマッチョな帰結としてしまうことも出来ます・・・。
まあ、そこを抜きとして考えていてもどうしても
「パワー」や「フォース」が介在してしまうという点を含めて
「アメリカ的」と言えるのかもしれませんね。
Posted by CHINOOK at 2010年06月20日 10:44
ぶっちゃけ、何の検証も出典の明示もなく文章を書いた上、デジタルにアーカイブが残るってのは精神衛生上よくはないですね(笑)
なので、こんなのやるとしても月刊か季刊でご勘弁を。品質は保証しません。

そう、この話で説明出来ないのが、板橋君が前言っていた「攻守がはっきりしている」または「はっきりとした間がある」というもう一つの特徴なんですよね。
それには、スポーツビジネスがどう関わっているかが分析されなきゃいけないので、むしろCHINOOKさんの守備範囲かと(笑)

あと、銃社会とかの話は興味深いですね。
銃が捨てられないのは、憲法上の権利だとか自警意識の表れだとか言われてますが、案外放物線愛のひとつの表れかもしれません。

ミサイルは・・・一瞬どっちを引くかを迷ったのですが、一応アメリカにおけるミサイル開発と引きつけてみました。ご教示感謝です。
Posted by 広域 at 2010年06月20日 20:34
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