2011年02月01日

[M_2011_02]『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』

先に行っておくと、僕は『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』の原作本が大好きです。
嘘だけど。

マジで嫌いなんですよ、あのやりとりとセリフ回しが。
昔、メディアマーカーに書いた書評(http://mediamarker.net/u/kouiki/?asin=4840238790)を読み返して、「あぁ、敵を作らないように最大限配慮してるな、俺」と思うくらいですもの。

しかし、映像化されるにあたって、これの壊れた作品がどうなるかが非常に楽しみだったので、ランチに寿司を食って映画館へ。

やはりあのセリフ回しと、うそくさいCG演出でココロが折れた。しかし。
それはみーくんとまーちゃんのやりとりの場面だけの話。すなわち、原作に大部分依存せざるをえない場面である。
それ以外の、二人の会話がない場面は、大変に素晴らしいのである(例えば、冒頭、みーくんがまーちゃんを尾行するシークエンスや、二人が壊れる前のシーン、鈴木京香と田畑智子が裏で動くシーンなど)。
そうなってくると、あの嘘くささを中和せずそのままにしたのは、意図的にやったのではないか、という気がしてくる。

タイトル通り、二人の世界はぶっ壊れているので、まさにその世界は嘘。
それが、みーくんの一人称で進む原作では、壊れた世界を生きるみーくんの文脈/コードを介して記述されていたため、虚偽性が隠蔽され、嘘くささが単なる気持ち悪いセリフ回しにしかならなかった。
しかし、映像化するということは、みーくんの一人称から、カメラという第三者の視点に切り替えることを余儀なくされる。すなわち、現世のコードに従って撮られる/見られることが前提である。
そうすると、二人の世界は「嘘なのである、壊れたコードで動いているのである」ということを示すために、嘘くさいCG演出や、いかにも下手くそな染谷将太のセリフ回しを温存し、その異常さを、他の世界(原作=一人称の外)との対比の中で示すことが必要であったのではないかと。
そうすることで、実は原作との差異化が図られている。みーくんが「嘘だけど」というのは、先行する記述の信頼度を相対化し、世界の真実を撹乱する機能を果たしていた(先行する戯言シリーズの「戯言だけどね」も同様)。
しかし、瀬田監督のアプローチが上述のものだとすれば、意味はまったく変わってくる。「嘘だけど」というみーくんそれ自体が、現世とは違う壊れた世界に今なおあることが演出上明らかなのであるから、「嘘だけど」そのものが「嘘の世界」に存在することになる。
すなわち、「先行する記述」も、「嘘だけど」も、ともに嘘の世界の出来事であり、現世の真実(カメラに映る物)の真実性はそれによっては揺らがないのだという宣言であり、サブカル周りで一時期流行った真実書き換えもの(その最極北に舞城の『ディスコ探偵水曜日』がある。あれはあれで限界突破だが)へのアンチテーゼであり、「原作を映画化して原作を殺す」作品である。
そしてなにより、原作が隠蔽していたこの作品の無意味さを暴露しているのである。

なるほど、ここまでほぼ自動筆記で書いてきたが、そんな見方もあるかな、くらいには納得した。
*嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん公式*
http://www.usodakedo.net/
posted by 広域 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | カンショウすること | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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