2010年08月20日

[M_2010_12]『借りぐらしのアリエッティ』。

私は表現能力のある人を基本的に尊重しているので、あまり上映まで至った作品に対して不満を持つことがない。
それぞれそれなりに考えて作っているのだろうから、それをひたすらにけなすのではなく、なんとか自分の中で「良い体験」に変換できるよう、一生懸命に解釈するようにしている。

さて、『アリエッティ』であるが、完全に私の許容範囲を超えていた。
実は前半はかなり楽しんでいた。背景を水彩色でぼやっと描いていた意味が、アリエッティが翔に認識されるまで環境・背景であることを描くための手法だったし、アリエッティと父親が借りに行くシークエンスは、小人ものの定番ながら面白い冒険物語であった。
しかし、それだけである。
後半はひたすらに翔の愚かさ(正確には、何も考えていない、あるいは内容がない)に怒り狂っていた。
愚かな人間に怒り、アリエッティに共感したという話ではない。
翔が採る行動も発言も理解できないというか、そこまで馬鹿な行動は映像作品でもやらないだろうという一点に尽きる。
で、その馬鹿な行動を正当化するロジックもいくつか考えてみたものの、その中で最有力のロジックすら、ラストシーンがああなっているがために採用できない。

とはいえ、これは原作ものであり、そういう人物として人間の少年が描かれているなら、ジブリ側に罪はないというか、原作の馬鹿さ加減を強調するために敢えてこの表現だというのなら、自らの不明を恥じるけれども、絶対にそうではないという自信がある。

さりとて、本作品が優れているのは、俳優陣が皆素晴らしい演技をしていたことだ。それだけが救いであるが、それだけにアリエッティと志田未来と神木隆之介がかわいそうだ。
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2010年08月13日

iPadと本棚の間で。

iPadを購入し、そのスピード感とヌルヌル感にすっかり魅せられて早1ヶ月。
その間、いろんな人に布教すべく、という大義名分のもと見せびらかしまくっていたら、先輩方からだいぶ不評を買っているようでもある。
しかし懲りずにiPadで遊んでいるわけであるが、最近CANONのImageformula DR-150を購入し、そのお遊びにも拍車がかかってきた。
最初は仕事の資料のうち、紙媒体で持っておく必要のないものを電子化し廃棄という程度でとどまっていたが、やはりスキャナを買った以上、やらねばならないものがある。
そう、「自炊」だ。

ここで話は数日前に遡る。
某つぶやき系サービスで、私は大要次のようなことを書いた。

子供が本に関心を持つ最良のきっかけは親父の本棚である。親父の本棚が読書ガイドとして機能するのは、よくわからないがキャッチーな響きのタイトルがずらりと/みっしりと本棚を埋め尽くしているところに、子供が自分の知らない知のストックを感じるからである。加えて、子供がその中から自分で一冊を手に取る。そこに主体的な選択が介在する。その際、本の重み、古びた紙の臭いが、今まで体験したことのない領域に踏み込むのだと感じさせる。


要は、子供にとって読書体験は「親父の本棚から勝手に本を持ち出し、今まで読んでいた本(絵本か教科書)とは違う何かに(物理的に!)触れる」ことを入り口とするということであり、その機能はiPadでは代替できないと考えている、と。

さて、そこではたと立ち止まったのは、自炊すべき書籍の選別基準である。
例えば、一読してもう読み返すことはないようなものについては、優しくブックオフに送り込めばよい。
そうではなく、読み返したいものについて、電子化すべきものとすべきでないものを分かつ基準は何か。
すべて電子化すべき、という人もいれば、再読の可能性のあるものはすべて紙で、という人も(そもそも電子書籍はNGという人も)いるだろう。
当然万人向けの答えはない。
では、ほかならぬ私はどう考えているかというと、さしあたり次のような基準を立てている。

数巻に及ぶ大作のうち、その物質性に意味があるか
→例えば、新城カズマ『15×24』は話題性もあり資料的価値も高いが、それが6冊並んでいることに意味があるとは思われない。平野啓一郎『葬送』は単行本版であれば物質性に意味があったが、4巻組の文庫版ではその意味もあまりない。これらは電子化の候補。
 逆に、舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』や京極堂シリーズなどは、それがレンガ書籍であることの身体性が重要であり、これは電子化しない。

他人に貸したいと思うか
→電子化の最大のデメリットはこれだと思っているのだけれど、物質は「貸し借り」が成立するが、データではできない(てか、やるべきではない)。そのようなものは紙で残す。

子供に読ませたいか
→本題。将来生まれてくるであろうわが子に、読書って面白いんだと思ってもらいたい。そして、これまで考えてきて感じたのが上述の「親父の本棚」論であるとすれば、ある意味答えは一つかもしれない。子供が読めるものではなくて、読ませたいもの。ある種、読書体験の入り口でアーキテクチャ的に縛ってしまうことにはなるが、読書するための引き金になりそうなものは紙で残す。

だいたい今のところその基準で考えているが、それでも残る問題があり、それが「電子化対象かどうかは読んでみるまでは決まらない」という問題。
電子書籍の最大のメリットが様々な本を数百冊単位で持ち運べるところにあるとしても、とりあえず紙で読むことを前提に組まれた上述のプログラムは、妙なジレンマを抱え込んでしまう。
そりゃ、いきなり電子化すりゃいいんだけど、売れてるだけの糞みたいな本を引いちゃったりした日にゃ、データでもいらねぇというか、せめてブックオフでダメージ中和せにゃ気がすまんということもあるのが人情なんだよねぇ。

ちなみに、上述の基準からはジャンル的に絶対電子化の対象になるものってのがあってね、それがなんなのかはまぁご推測のとおりです。
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2010年07月23日

[M_2010_11]『私の優しくない先輩』。

マンガとアニメのキャラクターでは、いくつか描けないことがあると言われている。
例えば死。例えば性。
と、この書き出しを使うと、大抵、手塚治虫の作品論につながるのだが、もう一つ描けないものがある。
それが匂い/臭い。

マンガ/アニメ/映画では、視覚聴覚は描ける。触覚と味覚は描けない。
しかし、アニメで描けず、映画で描けるのが臭いである。
嘘だと思うなら、アニメ作品ごとにその臭気を列挙してみるべし。

さて、『私の優しくない先輩』は、ひとえに、川島海荷が汗と涙に物理的な意味でまみれ、その臭いを表現するための作品である。

と、大層な書き出しで初めてみたが、この作品ですごいところは、川島海荷という水の象徴のような名前の女優を、汗と涙でドロドロに汚し、臭わせ、なおかつそれを綺麗だと思わせた点だ。そして、その一点に尽きる。
アニメーション監督である山本寛が実写を撮らなければならなかった理由はそれしか考えられない。ぐっしゃぐしゃのヒロインが、夏のドロッとした汗にまみれて臭気を発し、なおかつ美しいという一点。
そして、その一点において、この作品は成功している。顔をぐしゃぐしゃにした川島海荷の美しさは凄まじくて泣ける。

その美しさを見た後で、ラストショットに登場する普通の「川島海荷」は、一層衝撃的。
はっきりいって普通の取り方、普通の川島海荷のはずが、一瞬で鳥肌に転じた。あれはなんだったんだろう、いまなおよくわからない。

とりあえずたくさんの人に見てもらいたい。7割くらいの人には、広域は変態だと思っていただけて、残りの方のうち半分くらいには共感していただけるだろうて。

ちなみに、エンディングのMK5も相当すごい。あそこだけiPadに入れて持ち歩きたいくらい。

*私の優しくない先輩公式サイト*
http://www.senpai.info/
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2010年07月10日

ドラゴンクエストとGeneralist。

最近、昼寝の時間やらを利用して、「文化系トークラジオLife」のPodcastを聞くことにしている(昔、割と普通の時間にやってたときはライブで聞けてたのだが、日曜の深い時間から明け方までだとやはりしんどい)。
6月分のテーマは「理想のリーダー、リーダーの理想」であり、その中で「リーダーにスーパーマンを求める向きが日本にはあるが、リーダーはマネージャーであり、その機能を担う者である」という認識が出てきた。
すなわち、リーダーを「なんでもできる人」というGeneralistとして理解するのではなく、「調整と責任を取る仕事をする人」というSpecialistと理解することである(外伝ではその点の対比にも触れていた)。

さて、ここで書き散らすのは、Generalistとはなんであるか、という話である。
Lifeの中で言われていたのは「Generalistとは、複数のSpecialityを持つ者」ではない、ということであった。
日本型企業(といっても、私は普通の企業で働いた経験がないので)では、「複数の部署を転々として、一通り社内のすべての仕事がこなせること」を持って「Generalistになった」と考えるようだ。
しかし、それでは、一つ一つのSpecialityを行くところまで極めた人(例えば、専門職の頂点としての最高裁長官など)と比べて、Generalistが(その分野に関する)能力で敵うわけがない。
にもかかわらず、Generalistに対する信仰は根強いように感じている。

別の話をすると、「学際」という言葉。
「学際interdisciplinary」とは「分野を超えて」という意味だが、そこで「複数の分野をかじっただけ」の人間が生産された場合、最高裁長官に比してその人が持つSpecialityはなんなのか、という話になってくる。

Generalistであること、interdisciplinaryであることとは何か。

補助線として導入したいのが、(変なことであることは認識しつつも)「ドラゴンクエスト」(以下、ドラクエ)である。
ドラクエのモデルを決定づけたのはドラクエ3だと思っているが、ドラクエ3の特徴は、「勇者」という「何でも出来るけど、どれも中途半端」な人間が主人公に選ばれていることだ。
ドラクエ3のシステムを簡単に述べると、プレイヤーはまず、勇者オルテガの息子としての「勇者」としてゲーム内に入る。そして、勇者を操作して、「ルイーダの酒場」に行き、様々な職業(ただし、勇者以外)の仲間とともに旅に出る。
例えば、物理的戦闘能力に優れた「戦士」、回復呪文の使える「僧侶」、攻撃呪文の「魔法使い」、スピードに優れた「武闘家」といった具体である。
勇者のパラメータは、例えば「ちから」であれば、戦士より低く、魔法使いよりは高い程度に設定されている。
つまり、一つ一つのパラメータにおいては、「全ての仲間に負けている」。
それでもなお、ドラクエシリーズにおいてはこのような勇者が主人公に据えられ続けている。
ではなぜ、すべての仲間を超えた最強の主人公ではなく、このような中途半端なキャラが「勇者」であり主人公でありうるのか(設定上はありえないわけではない。さしあたり、ドラゴンボールの孫悟空を参照。周知の通り、キャラクターデザインはどちらも鳥山明である)。

ドラクエシリーズの特徴は、ドラクエ4を例外として、プレイヤー=勇者が仲間にコマンド=指示を出す点にある。
例えば、戦士が「ちからため」をしている間に、魔法使いは「バイキルト」(攻撃強化)をかけ、僧侶は「スクルト」(防御強化)をする。
次のターンは、戦士が攻撃、魔法使いがイオナズン、僧侶がベホイミをかける。
このように、戦略を立て、それぞれのSpecialityが最大限活用されるように調整するのが勇者の役割である。
そこでは、自分自身が「ちからため」「バイキルト」を使うことは必要とされない。
ただ、仲間の武器を知り、それを組み合わせる能力が必要となる。
そのためには、戦士が「ちからため」ができる、ということを知っているだけでは十分ではない(ここで十分だとするのが、部署持ち回り型Generalistである)。
「ちからため」を使ったターンは攻撃が出来ないという特徴と、バイキルトの効果は次のターンであるという特徴をつなぐことのできる能力が必要である。
すなわち、勇者のパラメータを補うのが、このリンケージ能力なのである。

Generalistに必要とされるのは、複数のSpecialistの能力をつなぐことである。
それは決して、複数の部署・分野を知っているだけでは十分ではない。
リンケージ能力というSpecialityを持っているということを意味する(Specialistは専門の中で全力を出すものであるから、リンケージを考えることは少ない)。

翻って、「学際」問題。
学際ということが、単に「一つのグループに複数のSpecialistがいる」「一つの大学で複数のSpecialityが学べる」ということであっては、中途半端なSpecialistができるだけである。
GeneralistのSpecialityがリンケージ能力にあるのであれば、学際教育を受けた者のSpecialityも同じ所にあると考えることには一定の合理性がある。
したがって、本当の学際教育は、リンケージ能力を涵養する教育ということになる。

しかし、残念ながら、リンケージ能力を意識的に開発している人も少なければ、当然それを教育する機関も少ない。
ただ、Specialistが複数人並立していても、船頭多くして船山のぼるそのものである。
そこで、今後のGeneralistにあっては、リンケージ能力を(現状では自ら)開発するしかない。
それはGeneralistというSpecialistになるということであり、いろんなことができますよ、ではない。
そのようなGeneralistが同時にリーダーとしての器になるのだろう。

というわけで、本エントリの結論は、経済がわかっていないとか、漢字が読めないとか、庶民感覚がわからないとか、そんなことでリーダーをdisるのはやめましょう、であって、それだとだれだって何かしらのnon-specialityを有するので、リーダーである以上絶対にdisられることになる。引いては「この人は何でも完璧すぎる(欠陥がないという欠陥がある。『めだかボックス』より)」ということで辞任させられるリーダーが出てきてしまうことになって、それだともう誰もやらんぞ、と思った参院選前日なのであった。
みなさん、選挙に行きましょう。
posted by 広域 at 20:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 書きちらすこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月26日

NYLON100℃ 35th SESSION「2番目、或いは3番目」。

半年に一度、ナイロン100°Cを見ると、一気に演劇熱が上がる。
今回は、何らかの事情で滅びかけた街から、「さらに不幸な街」を救済しに向かった男と女たちが、救済すべき街で救済されるお話である。
とにかく、大倉孝二が出落ちであり、この人の演技は日に日に神がかってきていて、それはそれですごいし、犬山イヌコが気づかないうちに舞台上にいて、あの声で婆さんを演じているなんてそれだけで凶器/狂気だし、小出恵介のオーラはそれに負けず素晴らしいものであり、それでいて、幸せをどこに求めるか(現状で満足できるか、自分より下位の存在を設定しないと幸せになれないか)という問題から、非常に奇形的な拘りを示す緒川たまきであったりと、役者・脚本・演出が完全に噛み合った名作。

http://www.sillywalk.com/nylon/info.html
posted by 広域 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月20日

[M_2010_10]『告白』。

『下妻物語』も『嫌われ松子の一生』も見ていないのだが、湊かなえ『告白』を読んでそれなりに楽しめた者にとって、予告編における生徒たちのダンスシーンがいかにも違和感アリアリで、それがゆえに劇場に足を運ばざるをえなかった時点で、すでに中島哲也の術中にはまっていた。
そのシーンについて述べると、それ自体が「クラスにおける違和感」を表現するためのものであって、そこだけ切り取って予告編とすることで、「湊かなえ原作にはなかったシーンが挿入されている」かのように錯覚させられていたが、あのシーンは完全にあの文脈においては必要なシーンだった。
その上で、生徒たちの醜悪な空気(表情ではない、そこまでの演技はまだ出来ていない)を冷静にカメラに収め、『告白』前半の嫌な空気を、ともすれば原作の数倍もよく表現していたように思う。

告白とはconfessionであり、神の前でペルソナを外して何もかもをぶちまけることであるが、後半、ペルソナを外して、その執着を顕にする登場人物たちは、一瞬ホラー映画かと見まごうほど、残忍な人間として立ち現れていた。演技が云々に回収出来ないすごさがあった。

小説と映画の対比に意味はないのであるが、告白内容に重点のあった小説版から、告白が持つ仮面剥奪=表情に重点を移した映画版へ、明らかな「発展」であったと思う。
posted by 広域 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | カンショウすること | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカ人と放物線。

サッカーワールドカップが日々盛り上がる中、アメリカではNBAのファイナルが行われた。
今年はレイカーズが7戦目を逆転で勝利し、チャンピオンになったわけだが、その速報映像に映し出された3ポイントシュートが非常に美しかったので印象に残っている。
選手の(NBAをチェックしなくなって長いので抽象的な表現だがご海容を乞いたい)手を離れたボールが、美しい放物線を描いて、リングに吸い込まれていく。
放物線の頂点で一瞬、コート上の運動が停止し、観客も息を飲む間が発生し、それが重力に導かれ、音を立ててリングを通過した際に歓声が爆発する。
そんな光景を見て、そういえば最近似たようなことを感じたなと記憶を呼び起こしてみると、それはベースボールの試合、それもホームランのシーンだったことに思い至った。

アメリカの4大メジャースポーツといえば、ベースボール、バスケットボール、アメリカンフットボール、アイスホッケーだが、前3者は、いずれもボールが放物線を描くイメージによって彩られている。
ヨーロッパでは、これらのスポーツが必ずしもメジャースポーツではないという事実に照らし合わせると、アメリカ人がこれほど「放物線」型球技を愛していることは、一種の民族誌的奇習といってよいだろう。

では、なぜ彼らは、これほど放物線のイメージを愛するのか。
ここで、「ミサイルのメタファーだ!やはりヤンキーどもは戦争が好きなんだ!」ということはたやすい。しかし、次の歴史的事実がその解釈を妨げる。
すなわち、MLBの発足が1903年、NFLが1920年、NBAが1946年であるのに対して、アメリカで最初のミサイルが開発されたのが1955年であるという事実がこれである。
ミサイルよりも、これらのスポーツが組織化された時期の方が早いのである。
仮にアメリカ人が、放物線のイメージにミサイルを重ね合わせ、それがゆえにミサイルをも愛すると仮定しても、それは「放物線を愛するという民族誌的奇習の一つの現われ」ととらえるしかない。

改めて問う。アメリカ人はなぜ、これほど放物線に魅せられるのか。
まず、放物線の形状からアプローチすることができる。
放物線とは、「地表(つまり重力下)で投射した物体の運動(放物運動)が描く軌跡」を意味する。
その形状はなだらかな傾斜と頂点を持ち、左右が概ね対象になる点に特徴がある。
フロイトならば、これをファルスととらえることになるだろう。
なるほど、アメリカにおいてサッカーがいまなおメジャースポーツとしての地位を獲得出来ないのは、サッカーのゴールネットが子宮、ボールが精子を意味する「着床のゲーム」であり、男性性の象徴たるファルスのイメージがそこに介在しないからだととらえることは一つの説明ではある。
(それは同時に、アメリカ女子サッカーの強さを裏付けるかもしれない)
しかし、放物線がファルスだ、とも断定し切れない。放物線の有する丸みは同時に女性性を表現する(例えば乳房)とも解釈可能だからだ。
(また、放物線=ファルスととらえると、「やっぱりアメリカ人どもはマッチョだぜ!」というステレオタイプに回収されてしまう嫌いがある)

では、アメリカ人の放物線愛はどこからやってきたのか。
もう一度放物線の定義を確認すると、そこには、「地表(つまり重力下)から【重力に抗って】射出される」という特徴が看取される。
それは同時に、「いずれは【重力に従って】出発点とは異なる地点に着陸する」ことを含意する。
この特徴とアメリカを対比するとき、想起されるのは、ピルグリム・ファーザーズの物語である。
弾圧から逃れた巡礼の始祖たちは、おそらくは神の法則によって、アメリカという理想郷に到達した(少なくとも、そう考えられている)。
これを放物線と照合すると、弾圧という重力から解き放たれ(地表からの射出)、それが神の力によって約束の場所にたどり着く(重力に従った出発点とは異なる地点への着陸)という形で符合する。

ホームランにアメリカ人が熱狂するのも同じ理路だと考えられる。
すなわち、「フィールド=戦場」から、「スタンド=安全地帯」に「ボール=始祖」が到着するから、「得点」に結びつく。
バスケットボールの得点も、ネットが「safety net」のイメージと結びつくことで、同種のロジックに結びつけられようし、アメリカンフットボールにおいて、混戦地帯を抜けたパスに熱狂するのも、同じところであろう。

これがこのエントリの結論である。
すなわち、アメリカ人は、放物線に、アメリカ建国の物語を重ねあわせている。
しかし、この結論は、当たり前といえば当たり前である。
内田樹がすでに指摘しているように、アメリカ人はその建国の物語に立ち返ることでアイデンティティを確認する。
その繰り返し作業の中で、アイデンティティ強化に資するものが選択的に生き残るであろうし、それがスポーツの領域では、放物線型球技に結びついていた、ということであろう。

この解釈では、メジャースポーツの4つ目であるアイスホッケーの説明が困難である。
直線型スポーツの代表格である氷上の格闘技が放物線型である3つと同じロジックに回収できるものなのか、それとも独自の背景があるのかは、誰かの分析をまたざるを得ない。

というわけで、久しぶりに超長文を書き散らしたわけである。
なお、当然私はこの分野については素人であるので、事実関係の誤りなどあっても、優しくスルーしていただけると助かる次第である。
posted by 広域 at 00:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 書きちらすこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月12日

[M_2010_09]『アウトレイジ』。

意味はない。ただムチャクチャ面白い。

という前評判を耳にした。

たまたま時間が取れたのが公開初日だったというだけで

特に公開初日でなければならない理由はなかったのだが

気がついたらチケットを抑えていた。


端的にいって、ひたすら人が血まみれで倒れていく映画であって

悪いヤツラが暴力振るいまくってるのって

現実だと迷惑だけど、映画だと面白いよね、というお話である。

とにかくテンポと映像で魅せまくるので、まったく飽きない。

また、血まみれなのだが、そこですら笑いを取ってしまうあたりに

北野武の底力を見る。
posted by 広域 at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | カンショウすること | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月29日

[M_2010_08]『アリス・イン・ワンダーランド』

そりゃあ川崎で見た方がいいのは知ってますが

ちょうど有楽町線の某所で朝から用事があって

その後行くなら有楽町が楽だよね

というわけで、有楽町にて3D鑑賞。

とはいえ、前日の睡眠時間の短さと

映画館の暗さと、3Dメガネ独特のフィルター感により

終始眠気との戦いとなったのは否定できない。

映像もよく、結末が導出される理路は少し考えなきゃいけないので

楽しめたことは楽しめたのだが

ティム・バートンに本当に申し訳ないことをした。
posted by 広域 at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | カンショウすること | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月24日

劇団、本谷有希子第15回公演『甘え』。

久しぶりに青山円形に行く。

雨の中だが、日曜日ともあり

こどもの城に集まった多数の親子が楽しげに騒いでいる横で

小池栄子が親殺しの罪悪感に苛まれていた。


父と二人で暮らす娘。

父は母に逃げられてから、毎晩娘の横で眠る。泣きながら。

「お前がいなくなったら、俺は自殺するぞ」と叫ぶ父を

娘はついに殺害することにする。


テーマとして、古典的な「親を殺す子とその罪悪感」を扱いつつ

言葉の意味と文脈を脱臼させながら笑いに転嫁させ

かつ、いつものような登場人物の狂いを全面に出した傑作だと思う。

とりわけ、小池栄子の演技がすばらしく

(そのシーンは本谷の演出も神がかっていると思うけど)

100分ちょっとの短さながら濃密な時間を過ごすことができた。

大満足。しかし、今年の演劇一発目が5月って・・・ダメだろ。
posted by 広域 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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